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2021年11月10日

1165. 東洋経済の記事に反応「JRはなぜ自前の発電所や変電所を持っているのか」への補足

「JRはなぜ自前の発電所や変電所を持っているのか」
東洋経済ONLINE

筆者が表示しているのは、西武鉄道 小川変電所の正面 確かに「鉄道会社では沿線に自社の変電所を備えている(筆者撮影)」とあるがJR東日本の変電所にしてほしかった。
 
 JRは、戦前の鉄道省時代から自営の発電所を持っていたことは確かである。
 当時の発電事業事業は群網割拠で各地に民間の発電所が稼働していたが、供給信頼度が低く価格的にも不安定だったため、国策事業の鉄道電化は、電力自営が基本であった。
 よく言われる甲武鉄道を鉄道院が買収したのが1906年 現東中野に柏木発電所(石炭火力)を引き継いだのが国営での自営電力の最初である。
 1908年私鉄買収により国有化を進めていた内閣鉄道院は、全国に21の自家発電所を持っていたが小容量の発電所を自営として持つことは経済的に無理があり鉄道省時代には廃止された。

 最初は柏木発電所の石炭火力であったが、電化区間(山手線のの字運転)が増えるにつき電力が不足し、東京鉄道(東京市電)からの購入電力が過半となっていった。人口増加により運転本数、径路も拡大したため柏木発電所の能力も追いつかなくなり、1914年六郷河畔に矢口ガス発電所を稼働させ、購入電力を縮小させた。なお1912年横川ー軽井沢間の電化に伴い石炭火力の横川発電所を建設している。その後赤羽発電所、川崎発電所が建設されたが、赤羽発電所は老朽化したので停止されている。



 1919年閣議決定で「国有鉄道運輸ニ関シ石炭ノ節約ヲ図ルノ件」がなされ水力発電も自営発電の一つとして計画され信濃川水力発電の建設が始まった。現在の千手、小千谷発電所による二段発電所の建設である。




 同時に東京近郊における「50年後の輸送計画」に基づく送電網が計画された。基幹変電所としては中央受電所(現武蔵境交流変電所)を中心に据え信濃川水力と赤羽、川崎火力とを結ぶ154㎸架空送電線を軸とし、東海道、東北、中央、総武、常磐に放射状の66㎸架空送電網、都心で相互に連絡できる22㎸地中送電を張り巡らす画期的な計画であった。
 当時東京に給電する電力会社は、数社に分かれて、互いにけん制し合っていたため火力-水力の一貫とした大送電網が無い時代であり、鉄道省としてのまとまりが、この送電網確立を後押しした。
 この時代でも大久保変電所(現新宿変電所)に東京電燈(のちのTEPCO)から送電、田端変電所に鬼怒川水力電気からの供給を受けている。
都心の22㎸送電網は、今でも残っており池袋変電所(現在66㎸化工事中)、巣鴨、品川、東中野、日暮里、錦糸町、両国等で運用されている。JR東日本としては早急に66kV化を図りたいところだろう。
 信濃川発電所が完成し、信濃川送電線154㎸送電が開始されると深夜に余る水力余剰電力を東京電燈(現TEPCO)に電力融通をしている。信濃川送電線を利用して日本発送電による電力託送が開始され、さらに川崎、赤羽の火力電力の融通も行われている。

 信濃川水力の戦後できた新小千谷発電所は275㎸を発電し、途中TEPCO中東京幹線を通じてTEPCO中東京変電所で154㎸に降圧して、JR東日本の信濃川水力に繋いでいる。
 このように東京近郊では、電力融通、電力振替、託送、委託発電をTEPCOと行っている。
1971年東京電力(現TEPCO)と国鉄(現JR東日本)は「国鉄・東電間設備等利用の相互協力に関する申し合わせ」を締結し現在でも引き続いている。
 この具体化例としては、武蔵野線8変電所、東北、上越新幹線6変電所の振替供給を行うもので、JR東日本川崎発電所の電力を負荷重心地点である川崎地区でTEPCO稲荷変電所に供給している。
 JR東日本では、東京近郊では電車の省電力化等により電力に余裕ができたため、駅ナカ施設を自営電力化するための配電所を設け自営に切り替えている。また自社建設ビルの東京丸の内のサウス、ノース、サピアタワーはJR東日本が電力を供給している。TEPCO供給であった横浜線は自営電力に切り替わっている。反対に東北本線 小山ー宇都宮間は送電線老朽化と都市部の拡大のためTEPCO電源に切替ている。
 
 以上の理由により鉄道院時代からの路線を引き継いだJR東日本は発電所・変電所をもっており東京近郊は自営化されている。
この「国鉄・東電間設備等利用の相互協力に関する申し合わせ」は、多分見直しが入るものと思われる。

基幹変電所と言われるものは以下の交流変電所を指す

JR送電網 


 今回の蕨交流変電所の事故で、京浜東北線、東北本線、東北貨物線が長期間止まった原因は一意的には蕨交流変電所の66㎸部分の事故後点検が長引いたことにある。2番目の因子は、浦和変電所が蕨交流変電所から2回線同時に給電をうけている盲腸変電所だったためである。
 蕨交流変電所の交流部分と直流部分は、別けられており直流変電所部分を延長き電すればスルー化できた。しかし浦和変電所も落ちてしまった(蕨からの2回線受電)ため浦和変電所の直流部分を延長き電しても、大宮変電所ー赤羽変電所間での直流送電では2変電所脱落状態になるので、直流送電は電圧低下のため、たとえノッチ制御しても無理である。
 
 浦和変電所は以前は、埼京線の南与野変電所、蕨交流変電所からの2回線受電であった。この状態が維持されていれば、スルー化は蕨交流変電所だけになり、運行本数を絞り、ノッチ制限で早期に運行が開始できたはずである。


 新幹線建設当時の古い資料には浦和変電所のネットワーク化が盛り込まれており、別方面2回線受電の計画であった。2回線受電、3回線受電でも同一の変電所からの受電はBCP対策にならない。データセンタの受電のように別系統の受電が必要となってくる。
 

参考資料
社団法人鉄道電化協会編;電気鉄道技術発達史 電気鉄道1万5千キロ突破記念,1983
東日本旅客鉄道株式会社東京支店電気部給電課編;自営電力のあゆみ(五十年の変遷),2004