横軽の廃止変電所を調べ始めたら奥が深く、若干 溺れながら記事を纏めている。
信越本線 碓氷峠越えは、明治時代 首都圏が電化されると同時に横川に発電所を設けてアプト式電気機関車で電化を行った。
その後 横川発電所の電力では賄いきれなくなり、東京電燈 碓氷線から66kVを架空送電線で丸山変電所に引込み 66kV降圧11kVで丸山、矢ヶ崎両変電所にケーブル送電(3条)を行った。また東京電燈 軽井沢変電所で降圧された11kVを架空送電線2条で矢ヶ崎両変電所に引込んでいる。丸山変電所、矢ヶ崎変電所の2系統受電と変電所間連絡送電線(ケーブル・3条)でバックアップが完成している。さらなる電力需要のため熊ノ平に変電所を設け11kV受電を開始した。(昭和11年)
昭和7年当時の給電系統 |
この丸山変電所から矢ヶ崎変電所間のケーブル3条の内2条No.5,No.6は老朽化のため使用停止され、No.7の1条のケーブル送電のみでの対応となった。このケーブルも老朽化してきたため、丸山変電所ー熊ノ平変電所ー矢ヶ崎変電所間に11kV 1回線の架空送電線が敷設され運用を開始した。昭和29年運開 No1~No.4は6.6kV時代の送電線番号
アプトの道に現存する特高電纜接続函埋設標 Twitter リンク
碓氷線(66kV50Hz)と西毛線(55kV50Hz)
東京電燈系の北軽 熊川発電所、佐久 土村、箕輪発電所、小諸 小諸、川島原発電所から発電された電力を、現R18バイパス沿いに高崎 野中開閉所に向かう66kVの送電ルートが大正初めに設けられた。これらは50Hzでの運用で軽井沢変電所-野中開閉所間は碓氷線と呼称されていた。(軽井沢変電所は、現中電軽井沢変電所の場所)北佐久線は現状 北佐久線、熊川線は北軽線に呼称が変更になっている。また軽井沢変電所を設けて別荘・ホテルに電力(50Hz)を供給している。
この経路とは別に、長野電燈が茂沢発電所から、東京電燈 軽井沢変電所をかすめ、同じルートで西毛地区に55kV 60Hzの送電ルートで磯部変電所(現TEPCO 磯部変電所)と一の宮変電所(現 TEPCO一の宮変電所)に供給を行っていた。これが安中地区の50/60Hz周波数混在の過去である。現在このルートは廃止されているが50000図の古地図には径路が書かれている。この一の宮変電所 周波数変換器を設けて一部50Hzで配電を行っていた。
茂沢発電所から現 中電軽井沢変電所までは、長野電燈時代の送電ルートがそのまま使われているが、72ゴルフ場の部分は、ゴルフ場を迂回するルートに変更されている。これは中電では5184 小諸軽井沢線と呼ばれている。
また東京電燈軽井沢変電所付近から分岐され現アウトレット付近に長野電燈が変電所を設け軽井沢地区に60Hzで電力を供給していた。つまり軽井沢地区は別荘・ホテルを目当てとした50/60Hz混在供給地区として存在していた。
以下東京電燈系の発電所
1919 T8 土村第一発電所運開 6600kW 50Hz1919 T8 土村第二発電所運開 2100kW 50Hz
1920 T9 碓氷線(東京電灯)運開 66kV 50Hz
軽井沢変電所ー野中開閉所
1921 T10 箕輪発電所 5100kW 50Hz
1921 T10 土村第三発電所運開 1050kW 50Hz
1922 T11 熊川第一発電所運開 2400kW 50Hz
1923 T12 熊川第二発電所運開 1600kW 50Hz
1925 T14 瑞穂発電所 8000kW 50Hz
1925 T14 海瀬発電所 4400kW 50Hz
1927 S2 小諸発電所 14800kW 50Hz
このように、碓氷線には多くの発電所が繋がり電力供給も安価で潤沢に使えることから鉄道省 横川発電所の電力を購買で対応することが可能となった。
関東管内電気事業要覧 昭和10年 11回 東京電燈 軽井沢変電所 50Hz 66kV 長野電燈 軽井沢変電所 60Hz 55kV 鐡道省 矢ヶ崎変電所 50Hz 11kV |
名古屋管内電気事業要覧 昭和7年 13回 東京電燈 軽井沢変電所 50Hz 66kV 長野電燈 軽井沢変電所 60Hz 55kV 鐡道省 矢ヶ崎変電所 50Hz 11kV |
軽磯線(66kV50Hz)
その後、国内で50/60Hz電力の棲み分けが行われ、軽井沢から直 野中開閉所に送られていた碓氷線は、磯部変電所(60→50Hzに受電変更)経由に改変 軽磯線に名前を替えた。
磯部変電所は当初は、長野電燈の60Hz受電変電所であったが周波数地区統一により50Hz受電に変更され、需要家は60Hzから50Hzの周波数変更を行った。
また当初長野電燈の軽井沢変電所は、現 中電 軽井沢変電所に移転 軽井沢地区では磯部変電所とは逆に、需要家は50Hzから60Hzの周波数変更を行った。北軽井沢は、TEPCO北軽変電所があるので50Hz供給地区となっている。
磯部変電所からは碓氷線が送出され安中の東邦亜鉛安中精練所の裏を経由、元の碓氷線にで繋がっている。東京電燈 軽井沢変電所は、開閉所になり、中電 軽井沢変電所が軽井沢地区の60Hz供給の要となっている。中電では、軽井沢地区の電力消費が多くなってきたため中軽井沢変電所を設け、軽井沢地区は現在2変電所供給体制となっている。
さて、この軽磯線 現在のTEPCO送電系統図では、R18バイパスの入山峠までは軽磯線、入山峠から磯部変電所までは九十九線の名前になっているが、実際は軽磯線が軽井沢側からTEPCO 五料変電所に向かう部分までは、送電鉄塔には軽磯線の名前が残っている。この分岐から磯部変電所までは送電鉄塔には九十九線の名前になっている。五料変電所に向かう鉄塔にどのような名前が付いているかは確認していない。
以下が作成した系統図
軽磯線、碓氷線、国鉄 熊ー軽線、横ー熊線等の経路記入
軽井沢地区の50/60Hz共存 時代背景
東京電灯、長野電灯株式会社 の共存、別荘を利用する財界人の思惑、国土開発資本による50Hz電源の使用があり1980年代までは50/60Hz共存であった。現在の中電 軽井沢変電所は、元は東京電灯の軽井沢変電所であった。 長野電灯(中電)の軽井沢変電所は、今の軽井沢ショッピングモール付近に設けられていたが、その後現在の地点に移動、東京電灯と同居の形をとり最終的に周波数統一でTEPCO開閉所と中電軽井沢変電所となった。
軽井沢地区は、別荘地として大正時代から開発されてきており、その当時星野温泉(星野リ ゾート)では50Hz発電機でホテル内、分譲した別荘に電力を供給していた。同様に軽井沢地区に目 を付けた国土開発(西武)は、星野と同様に50Hzでの電力を東京電灯 軽井沢変電所から 供給を受け別荘地等(晴山ホテル等)の電力として利用してた。
その後長野電灯が60Hzで進出し軽井沢は50/60Hzの混在地域として発展してきた。この50Hz時代での運用はホテル周辺では1980年代まで続いたが、最終的に中電の60Hzで軽井沢地区は統一された。1986年 星野の発電機は60Hzに変更され中電の系統に連携されている。 同様のプリンス系統も60Hzに統一された。
軽井沢地区の唯一の電力供給は、現 中電軽井沢変電所があった場所から行われていたが
急増する電力需要に対応するため、中軽井沢に新しく配電用変電所を設けている。
現状の系統
中電 軽井沢変電所とTEPCO 軽井沢開閉所
小諸軽井沢線5184 77kV60Hz受電 配電用変電所 |
左 ケーブルヘッドはプリンスホテル変電所への接続点 |
一番右 軽磯線2号鉄塔 66kV 50Hz TEPCO 中心奥 北佐久線、北軽線 66kV 50Hz TEPCO 左 小諸軽井沢線5184 77kV 60Hz 中電 |
軽磯線 No.1鉄塔 |
TEPCO 軽井沢開閉所は中電軽井沢変電所の後ろにある 一応 仕切りはある この部分は、軽磯線の出発点 右に軽磯線No.1鉄塔がある |
変電所内母線から北佐久線、北軽線を分岐する 鉄構自体は大正時代のチャネル鉄構 |
軽磯線 断路器は開路 母線に繋がっていない |
北佐久線 分岐 断路器は閉路 母線に繋がる |
北佐久線 |
北佐久線 |
北軽線 分岐 断路器は閉路 |
北軽線 |
北軽線 |
TEPCO 軽井沢開閉所 所内母線部 |
TEPCO 軽井沢開閉所 所内母線部 右 中電 軽井沢変電所 かつては、変圧器が置かれ配電用変電所として機能していた |
北佐久線と北軽線の共架 |
左 北佐久線 |
過去画像
中電 軽井沢変電所のうしろ TEPCO軽井沢開閉所から66kV送出50Hz 国鉄軽井沢線 1回線(軽井沢変電所へ) 一旦 中電 軽井沢変電所内を経由 右 奥の鉄塔は軽磯線No.1鉄塔 大正時代は、碓氷線の名称である。 碓氷線⇒軽磯線⇒九十九線と名を替えている |
TEPCO 軽磯線の上部を越える 国鉄軽井沢線 66kV 1回線 プリンスホテルスキー場を横断 左の鉄塔は軽磯線No.2鉄塔 |
参考資料(インターネット公開資料を含む)
鉄道省電気局 編:鉄道省電気局,1932(昭和7年)